三重県 明和町

地理

三重県中南勢地域に位置する。多気郡に属する。松阪市と伊勢市の間に位置し、伊勢湾に面している。
町域はおおむね平坦で、土地は肥沃である。

 

歴史

伊勢街道沿いにあり、古代には天皇の名代として伊勢神宮に奉仕した斎王の住んだ斎宮があった。

産業

農業:米(御絲米)、大根(伊勢たくわんの原料となる御園大根の主産地である)、イチゴ、トマト、メロン、スイカ、キュウリ、アスパラ菜

漁業:黒海苔、ヒジキ、バカ貝(アオヤギ)、アサリ伝統産業:天然藍染の御糸織と偽革紙(表面に皺や凹凸、色を付け、革のような風合いに加工した和紙)

史跡

○斎宮跡 ○斎宮歴史博物館(三重県埋蔵文化財センター) ○いつきのみや歴史体験館 ○さいくう平安の杜 ○斎宮跡ジオラマ○斎宮のハナショウブ群落(国の天然記念物) ○隆子女王墓

 

斎王とは

斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。

歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。

 以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。

伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。
 制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。

その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。

また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。

明和町HPから

 

斎宮とは

竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。

そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。

また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。

斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると右上の図のようになります。

平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。

一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。

これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。

明和町HPから